10年くらい前の初めてのインド旅行でバラナシに行ったとき、素焼きのカップでチャイを飲んだことがある。驚いたのは皆が飲んだ後にカップを放り投げていることで、そのあたりの地面には飲んだ後のカップの破片が散乱していた。
僕はそのとき初めて海外から書き込んだFacebookの投稿に興奮したあとで、埃っぽい空気と一緒に飲みこんだ土の香りのするどろどろのチャイを覚えている。
後で調べてみるとその素焼きの器はKulhar(कुल्हड़)といい、インダス文明以降5000年使われているものだとわかった。素焼きのカップは使い捨てのため、カーストの異なる人達が同じ器を共有することを避けることができる。また、インドではそれが田舎の雇用創出となっていて、農村の窯で内職的にずっと素焼きのカップを焼き続けている人たちがいることも知った。
いまではインドでも紙コップやプラスチックカップで代替されてしまうことが増えて、素焼きのカップが使われることはかなり減っているらしい。バラナシやコルカタくらいでしかあまり出会わないとか。
Watte Chaiは、10年近くイベントベースで「チャイカップが割れるチャイ屋」として活動を続けたあと、宇治の平等院鳳凰堂のごく近くに出店されたチャイ専門店だ。チャイカップは一度きりの使用かリユースカップが選択でき、飲んだ後にカップを割るところまで体験することができる。
素焼カップが古代の遺跡から出土していることからそう簡単に土に還るものではないとわかるが、ここでは割れたカップを粉砕して土に混ぜ、再度チャイカップとして焼成するという。
チャイを作るところを眺めさせてもらう。その所作は完成された動きで欠けるところがなかった。もう何年もチャイを作り続けてきたのだなと納得できる、気取るところのない、角の取れたチャイ。
素焼きのカップでチャイをいただく。土の香りが混ざってコクが増すような気もする。
簡単な粘土細工のようにも見えるが、熟練の技によりカップに必要な機能的な要件を完璧に満たして作られている。
唇にあたる部分は角度がついていて薄くなめらかである。机においたときにべく杯のように倒れたりしないよう、安定して立つように底が平らになっている。カップごとに容量が違わないように一定の大きさで作られている。
一つ一つの器は色がついていたり、どこか欠けていたり、表面が粗かったりで明らかに個性がある。
ためらいはあるが、叩き壊す。時間と手間をかけて形作られたものを叩き壊す。
その欠片は拾い集められ、砕かれ、捏ねられ、再生産される。こうやって繰り返していくとだんだんカップが強くなってしまい、しまいには割れにくくなってしまうらしい。
チャイを飲んで、すぐ近くにある平等院鳳凰堂を眺めた。昔の人は玉露のカフェインで酔っ払ったと言うが、このお堂が作られた当時は極彩色で、そこに極楽を観ただろう。
そもそも仏教はインドからやって来たものだ。チャイとも相性がよい。極楽エンターテイメントをこの世に表した平等院の仏(ブツ)を眺め、穏やかな気持でチャイを飲んで、叩き割る。
宇治はどう考えてもインドにつながっていた。
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